教員が誰も居なくなった職員室で一人、翌日返すための答案用紙の答え合わせをしているのも最早何回目だろうか。目とか首とか超だりぃ。時計を見ると、もうすぐ22時を回るところだ。そもそも答案用紙の丸だのバツだのを付け始めた時間が遅かったから仕方ないといえば仕方ない。ぐっと伸びをすると肩のあたりがゴキ、と鳴る。ったく、あと何枚残ってるんだか。テスト週間だか何だか知らねーが、何でこう毎回毎回俺だけ一人残ってやらなきゃなんねーのか。で、他の奴らは何で早く帰れるんだよ。永遠の謎だわ。


「んだコレ…バカ共め、答案用紙に落書きしてんじゃねーよ」


答えを一切書かず、でかでかと描かれた落書きに呆れる。誰だコレ…いやもう誰でもいいわ。一問も解けてねーってどういうことだよ。授業中何聞いてんだよ。だからここはバカ高なんだよ。落書きにバツを書く。何描いてんのかわかりません、と記載して次の答案用紙をめくる。えーと一問目は……。丸をつけるべくペンを走らせようとした時、右の端に書かれた答えではない言葉の羅列に目が留まる。『先生は誰かと言い合うほどぶつかったことはありますか』、と書いてあった。


「誰だ…… か」


誰かと言い合うなんて割としょっちゅうある気がするけどな。どういう意味だこれ。誰かと喧嘩でもしたのか。思春期のガキが考えることは分かんねえ。しかし見てしまったからには何か返さなければ、教師として良くないんじゃないか。 という生徒は他の生徒と比べて特に問題も起こさないし、どちらかというと真面目なほうだ。他の奴らの個性が際立ちすぎてジミーみたいに霞みがちだが、ジミーよりは目に留まる。落ち着いた独特な雰囲気が、あのクラスには異分子そのものだ。少し考えた後、その文字の下に教師らしい言葉を書き加え、採点を再開した。







やっと全ての答案用紙の採点が終わった。時間は…もう23時前か。こりゃ帰ったら飯食ってすぐ寝るしかねーな。シャワーは朝でいいか。答案用紙を鍵付きの引き出しに仕舞い鍵を締める。キュルキュルと音を鳴らす椅子をデスクに押し込み、窓や扉の戸締りを確認、まあ一度強盗に入られたようだけど大したものは置いてない学校だ。戸締りといっても適当でいいだろ。ガチャリと職員室の扉の鍵を回し締め、駐車場に向かうためプール横の渡り廊下を歩きながらタバコの先に火をつけた。


パシャ。


プールの横を通った時、小さく水音が聞こえる。えっ、何なに。今何か聞こえた気がしたけど気のせいだよね。
うん、絶対気のせい。あれは多分プールに葉っぱか何かが落ちて鳴った音だよね。俺は帰る、帰るんだ。


ピチャ…パシャパシャ……。


気のせいじゃなかった。確実に自分の耳へ届いた水音に背筋が凍る。今のは絶対、葉っぱが落ちた音じゃねえ。こんな時間に人が居るとは考えられないからアレだ、いや別に幽霊とかそういうの信じてないけど、そっち系の可能性は高い。んだよこっちは疲れてんだよ勘弁してくれよ…いや別に怖くないけど。うわっ、また鳴った!んだよォ、俺はもう帰るっつってんだろ!このままだと一人でトイレも行けなくなるだろうが!いや別に!?怖くなんてないけどね!?廊下で固まったままプール方向を見ていると、次第に鼻歌まで聞こえてきた。……待てよ、鼻歌?恐怖を一旦カバンと共に脇に抱えて現場へ向かう。


「……お前、何してんの」
「…あ、銀八先生。夜のプールを泳いでます」


ライトも付けずに夜のプールを悠々と泳いでいたのは俺の生徒の一人、 だった。前言撤回だ。この高校の生徒が、そして俺のクラスの生徒が特に問題を起こさないわけがなかった。真面目なほうだと思っていた奴ほど案外問題を起こすのだと今、自分の中の辞書に刻まれた。タバコの煙を燻らせながら半目で水の中の相手を見る。よく見たらセーラー服のままだ。マジで何やってんだよコイツは。


「深夜に学校のプール泳いでんじゃねーよ。とっくに授業終わってんだろうが」
「夜の学校に忍び込んで泳ぎたかったんです」
「え?何?忍び込んだの?」
「セキュリティ全然で楽勝でした」
「つーか深夜のプールで泳いでどうしたいんだお前は」
「やだなあ、青春ですよ、青春。高校を卒業する前に一度やってみたくて」
「…まさかお前がこんなに馬鹿だとは先生思ってもなかったよ」
「先生も一緒に泳げばいいのに」
「バッカお前、夜にプールなんて危ないことを教師が率先してやるかよ」


決して泳げないわけではないからな。断じて違う。そもそも23時を過ぎてプールで泳いでいる今の状況が異常だ。真っ暗だぞ。こんな暗い中で水の中に居たいと思うか普通?何年教師をやっていても、ガキ共全てを一人の人間として理解するのは不可能だ。真面目で手のかからない生徒だと思っていたのに裏切られた気分だ。いや、もしかしたら真面目だから羽目の外し方が分からず、こういうトンチキなことをしでかすのかもしれねェ。明日から要注意生徒としてブラックリストに追加しとこう。


「先生」
「あん?」
「星、綺麗だね」


ぷかりとプールに浮いたまま空を見る目を追って同じように上を見れば、雲もなく満天の星空が目に入る。表通りから離れたここは明かりが少ない。そうだな、と返しながらタバコの灰をプールサイドに落とす。清掃員のオッさんには申し訳ないが仕方ない、俺じゃない誰かのせいにでもしとこう。ふーっと煙を吐くと星たちの間をふわりと広がり空気に溶けた。今日は月も星も、全部キレイに見えやがる。視線をプールに戻して見れば、 が浮かぶ水面にも星たちが映りこんでいた。


「プール、星が映ってんぞ」
「…ほんとだ。ここも宇宙の一部みたい」
「ロマンチックなこと言ってるけど、早くプールから上がんねえと両親が心配するんじゃねえの」
「大丈夫。今日、二人とも居ない時を狙って来たので」
「…あっそ。じゃあ俺はもう帰るからな。お前も気を付けて帰れよ」
「先生、待って」


プールサイドに腕を乗せ、自分を呼ぶ声にドキリとする。
なんだこいつ、今日は俺の知らねえ顔をよくするじゃねえの。


「先生、私の答案用紙、見た?」
「…ああ、さっきまで採点してたからな。何あれ、なんか悩んでんのお前?」
「うん」
「何」
「……笑ったりしない?」
「笑わねえから言ってみろって」
「……先生、私、卒業したくない」
「あ?」
「大人に、なりたくない」


下を向き泣きそうな声でぽつりと溢した言葉。とんだピーターパンが居たもんだ。とはいえ他の奴らとは違って多分繊細な奴だから厄介だ。めんどくせえな、と思い後ろ頭を掻く。思春期のガキのこの手の相談に乗れるほど、俺は人間できてねえんだよ。どうしたもんか、とタバコをプールサイドに落とし靴の裏ですり潰す。ふーっと煙を吐き終えた後、下を向いたままの の傍にしゃがみ込んだ。


「何で、そう思うんだ?」
「だって…大人になったら今みたいに皆と一緒に過ごせないし」
「大人になっても会おうと思えば会えるだろうが」
「それに今しかできないこと、まだやりきれてないし、」
「…だから夜の学校に忍び込んでプールってか?」
「学校の怪談も解明したいし、」
「やめとけ、真実は知らねーほうが幸せなこともあるんだよ」
「恋だってしてないし」
「すりゃいいじゃねーか」
「誰に?」
「さァな」
「…今やりたいこと、いっぱいあるのにまだ大人になんてなりたくない」
「…何をそんなに怖がってんだか」


高校生ってのはやっぱガキだな。その相手をさせられる教師のめんどくささはいつまで経っても慣れねえ。プールの中に浸かった生徒と人生相談をするこの時間は何なんだ。大体、悩み事ってのは夜するもんじゃねェ。朝起きて同じように悩むなら別だが、大抵のモンは考えすぎだったり邪念が生んだ代物だったりするもんだ。ったく、こんなところで水に浸かってないで早く家に帰って寝ちまえばいいのによ。


「…大人になっても、誰かとぶつかるほど向き合える?」
「先生はぶつかってばっかりだけど」
「それは銀八先生だから」
「何だ?先生は大人じゃねーってか?」
「……大人、だけど」
「俺だってやろうと思えば夜のプールで泳げるし、オメーらと缶の回し飲みだって出来んだよ」
「…そうなんだ」
「大人になっても、今出来ることが出来なくなるわけじゃねーよ」
「……そっか」
「大人になるのが怖いなら、大人だからこそ楽しいことがあるって教えてやるよ」
「本当?」
「あァ。分かったらとっととそこから上がれ。帰んぞ」
「うん。……ねえ先生、」
「なんだ」


先生ありがと、と言う に、おう、と返す。なんだコイツ、こんな風に笑えたのか。プールから上がるための梯子までスイ~ッと泳ぐ姿にドキリと胸が高鳴る。星が映る水面が揺れるのも相まって非現実で、幻想的で、夢の中にでも居るみたいだ。プールサイドに上がって制服を搾る様子を見て、このまま帰すのは流石に風邪をひくだろうし教師として送っていくかと考える。そしてあの答案用紙の端に『ぶつかりたい時は先生のところへ来なさい』と書いたのを、俺は後悔するかもしれないと思った。














星と泳ぐ君

(大人になるのも悪くねーと思うよ、俺は)


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